「学び」はコミュニケーションである(10)最終回

  

1月からスタートしたこのテーマも最終回である。
思いつくまま、つらつらと続けてきたが、自分なりの気づきを並べたようなものだ。
今回は最後に「学び」の中身について考えていきたい。

 
以前より、コミュニケーションにおけるコンテンツの「物語化」の効用について耳にすることがあった。
相手に話を伝えるときに、内容を整理しロジカルに話をした場合と、
ひとつの物語として構成した話として伝える場合とを比較したとき、後者の方がしっかりと伝わるというものだ。
たとえば、新商品のことを説明するときに特徴などを単にわかりやすく説明するよりも、
その商品の誕生物語を語った方が印象に残る。

 
その理由としては、前者は伝え手が意図した以上の内容が伝わらず、
受け手の理解の程度や姿勢に合わせて内容が目減りする。
しかし、後者の場合は、受け手が想像を膨らませ、自分なりの発展的な解釈を加えながら受け止めることで、
本質が伝わりやすくなるだけでなく、送り手の意図した内容以上のもの、
しかも情感も含めて伝わることがあると考えられる。
もちろん、物語の内容や送り手の力量、受け手の創造力など、
それを成立させる要因はたくさんあるのだが、ひとまずおいておく。
しかし、まとまった考えや概念を理解するために、成功事例、
または失敗事例を通して理解することは、日常的には割とあるだろう。

 

さらに自分なりに、この視点を発展させると「人」が絡む「物語化」により、
さらに受け手の理解が促進されると仮説的に考えている。
従業員の望ましい行動を促すときに、行動基準を単に詳しく説明するのではなく、
モデルとなる人のエピソードや失敗談などを通して伝えることで、より内面に深く届く。
これは、「学ぶ」中身にもつながることだろう。
近年我々を取り巻く情報は断片化し膨大なものになりがちである。
たとえば、ツイッターというスタイルはいろいろな見方ができるが、一定の効用を認めつつも、
振り回されると困ったことになりがちである。
つまりは、情報の扱いにおいて、理解可能な編集が求められるのであり、
それが「人の輪郭」を通すことで、受け入れやすさがかなり変わってくるということだろう。
このあたりは、別途詳しく説明する必要があると思うのだが、日々交わされる膨大な情報との付き合い方、
また学び方を考えたとき、それぞれが人として了解可能な一定の情報のまとまり、
比喩的にいえば「情報の人格性」のようなものが、近年とりわけ重要になってきているのではないだろうか。
散りゆく桜を見ながら、ふとそんなことを感じている。

 

このコラムのシリーズの〆として、以上のような謎めいた(?)投げかけを残して、ひとまず最終回を終えたいと思う。